風化させないー阪神・淡路大震災から25年

2020年1月18日[カテゴリ:コラム, 防災対策

25年前の5時46分、阪神淡路の地を震度7の地震が襲い、
西宮市内では1146名の方が犠牲となりました。

昨日は、5時半に西宮市奥畑に整備された震災記念碑公園へ行って献花をし、
5時46分に、集まった多くの方々とともに黙祷を捧げました。

震災から25年が経ち、市役所内で当時の対応を経験した職員も少なくなってきました。
そして、震災を経験していない市民も増えています。

平成23年12月議会の一般質問で、述べたことがあります。
↑クリックするとご覧頂けます。

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25年前、私は大学受験を控えた時期で、大阪府寝屋川市に住んでいました。
そして、地震が発生したのは、センター試験を終えた翌々日のことでした。
地震発生時の感覚は、大阪に住んでいた私ですら忘れられません。

未だに、家にいて地震があると鳥肌が立ちます。

受験生でしたので、毎朝5時半くらいに起きていたので、
その日も、起きてすぐに顔を洗って自分の部屋に戻り、
ステレオの時計を見て、5時45分だったことを覚えています。

家族はまだ寝ていました。

何をしようとしたのかは覚えていないのですが、
机にはつかずに、再び、リビングに行った直後に、
立っていられないほどの、経験したことのない強い揺れに襲われました。

地震であることはすぐに認識できたのですが、
驚きすぎて、反射的に寝室の布団の中に飛び込んだのを覚えています。
近くにあった「テーブルの下に潜る」という意識が働かなかったのです。

 
マンションの6階だったこともあり、実際の震度よりも強い揺れだったと思います。

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というのも、
私が小学生の時、父は東京に単身赴任をしていたのですが、
ちょうど、父が借りていた東京のアパートに遊びに行っていた時にも、地震がありました。
その時の震度は4。まだ小学生でしたので揺れが強かったことは覚えていますが、
立っていられないほどの強さではありませんでした。

「やっぱり、東京は地震が多いね。」
という会話をしたことも覚えています。

「東京は地震が多い。大きな地震は東京で起こる。」という根拠のない意識がありました。

「まさか、関西で大地震が起こるとは。」

いつどこで発生してもおかしくないと言われる現在、
今の人からすると信じられないかもしれませんが、
当時は、それが関西人の一般的な感覚だったのではないかと思います。

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そして、阪神・淡路大震災の時に私が住んでいた地域の震度も4でした。
当時は、震度が1~7の7段階でしたので、5弱とかありませんでしたが、
子供のころに東京で経験した震度4とは、比べ物にならないくらい大きな揺れでした。

「当時は、地震が起きたら、玄関の扉を開ける。」というのが、教訓のような感じでした。
寝ていた父が、揺れが収まらず、まっすぐ歩けないような中で、
家に閉じ込められないように玄関の扉を開けに行った姿も忘れられません。

そして、揺れが収まってから、テレビをつける余裕もなく、
震度も震源も分からないまま、家族全員でマンションの1階に避難しました。

「たぶん、震源はものすごく近いな。」
そんなことを考えながら、まだ外は真っ暗でしたので、
うす暗いマンションの1階のホールで不安なひと時を過ごしました。

降りてくるマンションの住人が少しずつ増えてきて、
当時はマンション内でのコミュニティ活動が今ほど活発ではありませんでしたので、
初めて見る人が多かったように思います。

その中のひとりがラジオを持って降りてきてくれ、
ホールでラジオのニュースが流れました。

「震源地は兵庫県南東部。」

兵庫県?住んでいた地域からは、思っていたよりもはるかに遠い。
それで、あの揺れ。。。

その時、

「これは、震源地付近は大変なことになっているのではないか。」

直感的に浮かんだことです。

ホールにいる間にも、余震がありました。
少し明るくなったくらいの時間に家に戻り、
停電はなくテレビがつきました。

家の中では、棚は倒れることはなく、
棚やテーブルの上に置いていたものは落ち、掛け時計が落ちて割れていました。
逃げるときにそれを踏んでいたら大けがをしていましたが、
よけたわけではなく、偶然踏まずにすみました。
よく見ると、揺れを吸収するためのマンションの廊下の継ぎ目のコンクリートが割れていましたが、
通行できないほどではありませんでした。

そして、
4月から神戸大学に進学することが決まりました。

大学では、神戸出身の学生が多く、震災を経験した友人が多数でき、
直後の生活の様子を聞かせてもらうこともありました。
しかし、地震発生前に起きていた人の話はあまり聞いたことがありません。

ちなみに後期日程でしたが、
3月の試験は大阪大学で受け、
合格発表の時にも、
まだJRも六甲道駅が潰れて復旧できておらず、
阪急電車では六甲駅まで行けず、
阪神電車がかろうじて御影まで復旧していたので、
阪神御影からバスで大学に行ったこともうっすらと覚えています。

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市会議員の活動をしていると、当時の話を聞かせてもらうことも多く、
所属する消防団でも先輩から救助活動のことを聞かせてもらうことがあります。

しかし、
話を聞いているだけでは、実際にまた、大地震が発生したときに冷静に行動ができるのか、
不安があります。

震災を風化させないということは、震災の教訓、経験を活かして備えるということであり、経験者が減少する中で、大規模地震の際に的確に行動できるように備えるためには、日頃の防災訓練を積み重ねることだと考えています。

「風化させてはいけない。」と言われますが、実際には、防災訓練の参加率は決して高いとは言えません。

イベント化する市の総合防災訓練の形骸化に危機感をもち、平成23年12月議会で取り上げました。

昨年の6月議会でも避難訓練や火災対策について取り上げました。

犠牲者の死を、被災者の経験を無駄にしないためには、さらに努力しなければならないと感じています。

昨日の追悼式では、そのようなことを考えていました。

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